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中央自動車道の下に眠っていた遺跡 御社宮司(みしゃぐじ)遺跡

中央自動車道の建設時には、たくさんの縄文時代の遺跡が見つかっています。原村の国指定史跡阿久(あきゅう)遺跡もそのひとつですが、坂室バイパスとJR中央線とのあいだのあたりに見つかったのが、御社宮司(みしゃぐじ)遺跡です。

御社宮司(みしゃぐじ)遺跡の調査のようす(1)御社宮司(みしゃぐじ)遺跡の調査のようす(2)(2)

(1)西から見た御社宮司(みしゃぐじ)遺跡の発掘調査のようす。遠方に見えるのは八ヶ岳。(2)南から見た御社宮司(みしゃぐじ)遺跡の発掘調査。(長野県埋蔵文化財センター)

遺跡は八ヶ岳山麓の縄文時代遺跡とは違って、沖積低地に残されていました。また、遺跡の年代は縄文時代の終わりごろ(晩期)で、このあたりでは遺跡が非常に少ない年代です。そんな縄文時代晩期の生活痕跡をみると、竪穴住居をはじめとする住居は明確なかたちでは発見されず、お墓1基、火を焚いた炉のあとが10か所、一抱えほどの石をまとめた配石址(はいせきし)が4か所、黒曜石の未加工の原石をまとめておいた黒曜石集積が11か所などが見つかりました。

そのほか、古墳時代の竪穴住居が1軒(5世紀後半)、中世のものと思われる竪穴住居が1軒、穴60基、石が積まれた竪穴状遺構1基、礫群(れきぐん)、石列(せきれつ)など、中世以降の畦畔状遺構(うねあぜじょういこう)などが見つかっています。

御社宮司(みしゃぐじ)遺跡の中世の竪穴状遺構(1)御社宮司(みしゃぐじ)遺跡の石列(せきれつ)(2)御社宮司(みしゃぐじ)遺跡の畦畔状遺構(うねあぜじょういこう)(3)

  1. 石が積まれた竪穴状遺構
  2. 石列(せきれつ)
  3. 畦畔状遺構(うねあぜじょういこう)

茅野市では数少ない縄文時代晩期の遺跡

茅野市内の縄文時代晩期の遺跡は、国指定史跡である上之段(うえのだん)遺跡、栃窪岩陰(とちくぼいわかげ)遺跡、御座岩岩陰(ございわいわかげ)遺跡などわずかしか見つかっていません。不思議なことに、あれほど多くの縄文時代中期の遺跡が見つかっている八ヶ岳山麓には、まったくといっていいほどありません。
この御社宮司(みしゃぐじ)遺跡でも明確な住居はありません。それでも火を焚いた炉址(ろし)があることは、短い間でも生活を営んだ(例えば加熱調理をする)ことになります。こうした10基の炉に加えて、焼けた土の集中するところも12カ所あります。

御社宮司(みしゃぐじ)遺跡の縄文時代晩期の第5号配石址(はいせきし)(1)御社宮司(みしゃぐじ)遺跡の炉址(ろし)(2)

  1. 配石址(はいせきし):まるで石で囲った炉のような形ですが、石に熱を受けた痕跡がまったくありません。このため、用途は不明です。
  2. 炉址(ろし):唯一の石囲いの炉です。石は激しく熱を受けて割れています。また石囲いの中央の土もよく焼けています。

御社宮司(みしゃぐじ)遺跡から出土した土器のほとんどは、縄文時代晩期後半に作られた氷式土器(こおりしきどき)です。注目できるのは、日常の下ごしらえ調理に使ったと考えられる、文様や装飾がなく、作りが丁寧ではない深鉢形の土器(粗製深鉢)が多いことです。10基の炉址(ろし)や12カ所の焼けた土の集中箇所と合わせて考えると、やはり一泊程度ではない生活営んでいたと考えられます。

雑穀栽培していたかも? 出土土器に残された種の痕

近年の研究で、縄文時代の植物栽培の可能性が非常に高まっています。というのも、縄文土器にダイズやアズキなどの植物種子の圧痕(あっこん)が残されていることが、多くの遺跡で確認されてきました。
御社宮司(みしゃぐじ)遺跡から出土した土器には、キビやアワの種子圧痕が確認できています(中沢道彦・佐々木由香2011、中沢道彦2012)。

植物種子の圧痕が確認できた土器片

キビの種子圧痕が確認された土器(左2点)とアワの種子圧痕が確認された土器(右)

キビは現時点では野生種が未確認であり、栽培植物とされています。キビの種子圧痕が確認されたことはキビ栽培が行われた可能性を十分に示すと言えます。その当時、西日本では稲作がすでに始まっていたようですが、この地では標高が高かったためか、雑穀栽培だけが先に始められたのでしょうか。

多量の黒曜石石器は狩猟活動を物語る

御社宮司(みしゃぐじ)遺跡のひとまとめにされた黒曜石原石(1)出土した黒曜石の矢じり(2)

  1. ひとまとめにされた黒曜石原石。このような黒曜石の集積が11か所見つかった。
  2. 出土した矢じり。全部で422点出土した。(青い線は5センチメートル)

御社宮司(みしゃぐじ)遺跡の出土遺物でもう一つ特徴になるのが、黒曜石製石器の多さです、矢じりが全部で422点出土しましたが、長野県内の同じ年代の遺跡、例えば駒ケ根市の荒神沢(こうじんざわ)遺跡や長野市の宮崎遺跡に比べると非常に多くなっています。山ノ内町の国指定史跡である佐野遺跡からは1000点以上出土していますが、それに次いで多くなっています(中沢道彦氏の研究による)。
黒曜石の矢じりだけでなく、黒曜石の原石をまとめて置いた黒曜石集積が11か所見つかっています。この場で矢じりなどの石器をつくるために黒曜石を貯蔵したのだろうと考えられ、御社宮司(みしゃぐじ)遺跡の住人の生活は、狩猟をかなり重要な生業としていたと想定できます。

この狩猟活動を考えるうえで興味深いのは、御社宮司(みしゃぐじ)遺跡と同じ年代に利用されたことが分かっている栃窪岩陰(とちくぼいわかげ)遺跡です。この遺跡からは動物の骨が出土していますが、それらをみると、石器で肉を切り離したときについた傷が見えるものがあります。

栃窪岩陰から出土した肉を切り離した傷のある動物骨
栃窪岩陰(とちくぼいわかげ)遺跡出土の動物骨のうち、石器で切りつけた傷などがあるもの。

1~3は石器による傷(カットマーク)がなかでもはっきり見えるもの、4と5は肉食獣が噛んだ痕(トゥースマーク)があるもの。【柏原区寄託資料】

狩猟で手に入れたシカやイノシシを栃窪岩陰(とちくぼいわかげ)に運び込み、肉を切り離すという解体作業をしたあと、解体した肉を背負って御社宮司(みしゃぐじ)遺跡に帰っていったのかもしれません。あるいは、北山湯川の上之段遺跡に住んでいた人々と共に狩りをして、「じゃあまたな」と別れて帰ったかもしれません。
それだけじゃなく、肉食獣が骨を噛んだのではないかと思われる骨もあります。解体後、人が放置していった骨をタヌキやキツネが食べようとかじった可能性もありますが、狩猟にイヌを連れていき、ご褒美に「おいよくやったなぁ、よしよし」と与えたのではないでしょうか。

肉を切り離した傷のある動物骨1肉を切り離した傷のある動物骨2肉を切り離した傷のある動物骨3肉食獣の噛み痕のある動物骨
1~3のカットマークの拡大(青い矢印)と4と5のトゥースマークの拡大(青い線の内部が噛んだ痕と思われるダメージがある)【柏原区寄託資料】

引用文献

中沢道彦・佐々木由香2011「縄文時代晩期後葉浮線文および弥生時代中期初頭土器のキビ圧痕」(『資源環境と人類』第1号、明治大学黒耀石研究センター)
中沢道彦2012「氷1式期におけるアワ・キビ栽培に関する試論」(『古代』第128号、早稲田大学考古学会)

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