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あけぼの隧道とろうきん茅野支店のところにあった遺跡 構井・阿弥陀堂(かまい・あみだどう)遺跡

国道299号線のあけぼの隧道を建設するときに、遺跡が見つかりました。構井・阿弥陀堂(かまい・あみだどう)遺跡と呼んでいますが、主に弥生時代と平安時代の集落で、市内でも弥生時代と平安時代では規模の大きい集落と言えます。
この構井・阿弥陀堂(かまい・あみだどう)遺跡から、実は縄文時代の竪穴住居も見つかっています。

構井阿弥陀堂遺跡の範囲がわかる航空写真

空から見た構井・阿弥陀堂(かまい・あみだどう)遺跡(平成5年【1993年】、白い線が遺跡範囲、左下~中央に走るのが国道)

構井阿弥陀堂遺跡の調査区と縄文時代の住居の航空写真1構井阿弥陀堂遺跡県道197号線建設時の調査の航空写真2

構井・阿弥陀堂(かまい・あみだどう)遺跡から見つかった縄文時代の住居の位置

  1. 白い線が調査区、赤い楕円が縄文時代の住居
  2. 県道197号線建設時の調査で、白い丸が縄文時代の住居

縄文時代の竪穴住居は、あけぼの隧道の建設時に3軒、ろうきん茅野支店の建設時に5軒、そして国道20号線を諏訪方面から走り、上原交差点で左折して茅野駅へ向かう県道197号線のバイパス建設時にも9軒が見つかりました。そのほかの調査もあわせると、全部で21軒の竪穴住居、1軒の敷石住居、形態不明の住居5軒、掘立小屋のような建物4軒が見つかっています。

それらの年代をみると、県道197号線の調査区では縄文時代前期前半、あけぼの隧道やろうきん茅野支店付近では縄文時代中期後半から後期にかけて、人々が生活していたようです。

何じゃこりゃ? 三角とう形土製品(「とう」は土へんに寿の旧字体)

構井・阿弥陀堂(かまい・あみだどう)遺跡からは、とても珍しいものが出土しています。「三角とう形土製品」(さんかくとうけいどせいひん)と呼んでいるもので、三角柱状の土製品です。表面は磨き上げられたようにつるつるしています。側面には模様があり、すべての模様が見えるように置くときの底面には模様がありませんが、擦ったような細かい傷が残っています。また、ど真ん中を貫通する穴があることも特徴のひとつです。
市内では、ほかに福沢工業団地の中原遺跡(福沢中原遺跡)からも半分に割れた三角とう形土製品が出土しています。模様は、この構井・阿弥陀堂(かまい・あみだどう)遺跡のものと全然違います。

三角とう形土製品の写真1三角とう形土製品の写真2枚目2

三角とう形土製品の写真3枚目3三角とう形土製品の写真4枚目4

三角とう形土製品側面に描かれた模様(右が構井・阿弥陀堂(かまい・あみだどう)遺跡出土、左が福沢中原遺跡出土)

  1. 正面(出土したときに上を向いていた面)には楕円形が4重に描かれ、中央に渦巻きがあります。
    三角とう形土製品出土のようす写真 出土のようす
  2. その左側の細い側面は線が二重に描かれ、その内側に貫通孔と棒状のものを刺してつけたようなあとが3つあります。
  3. 背面(正面の反対側の面)には、楕円が4重に描かれているところは正面と同じですが、中央の模様が異なっていてカセットテープのアイコンのようになっています。
    なお、福沢中原遺跡出土のものは、棒状のもので突き刺したような模様だけです。
  4. 底面です。細かい傷が長い辺に平行するように残っています。

三角とう形土製品のど真ん中の貫通孔がわかる写真(1)三角とう形土製品のど真ん中の貫通孔がわかる写真2枚目(2)

三角とう形土製品の貫通孔(かんつうこう)(左:構井・阿弥陀堂(かまい・あみだどう)、右:福沢中原)

この三角とう形土製品は、縄文時代の中期後半から後期前半にかけて、北陸地方~東北地方南部で流行します。何に使ったかは残念ながら不明ですが、性的表現をしたものであり、儀礼的な道具であろうという考えがあります。

永明寺山麓沖積地の縄文集落

八ヶ岳西南麓は特に縄文時代中期の遺跡が多数見つかっている地域であり、なかでも小泉山と大泉山周辺を流れる柳川以北の俗に北山浦と呼ばれる地域が、中心的な地域のようです。
構井・阿弥陀堂(かまい・あみだどう)遺跡は、北山浦ではなく、諏訪湖盆への玄関口のような位置にあります。当時の中心地が北山浦であれば、いわば「はずれ」のようなところに営まれた村だったわけです。
構井・阿弥陀堂遺跡で、もっとも多くの住居が見つかった中期後半の周辺の遺跡を見ると、北山浦にたくさんの遺跡があります。それだけでなく、守屋山山麓方向へ1キロメートルほどのところに高部遺跡があります。さらに山麓沿いに進むと、福松砥沢遺跡(諏訪市)、花上寺(かじょうじ)遺跡(岡谷市)などがあります。

北山浦の遺跡とそれら守屋山山麓の遺跡とで縄文人の往来があったことは間違いないと思いますが、そのときどきで、それらの村々のやり取りの仲介をしていた可能性はあるでしょう。
「この黒曜石の矢じりをさ、川魚かシジミと交換したいんだけど、向こうの人とケンカしちゃってさ。まだ気まずいんで、悪いけど頼まれてくれないかな?」なんて、棚畑の住人に頼まれて、構井・阿弥陀堂(かまい・あみだどう)から高部のほうまでいったりしていたかもしれません。
1キロメートル程度なら、騒音もなかった縄文時代なので、大声を張り上げたら高部ムラの住人に聞こえて、「わかったー! 明日持ってくわー!」なんて1キロメートル越しの会話もしていたかもしれません。

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