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笹原溜池の周囲にある遺跡 笹原上(ささはらうえ)遺跡

御射鹿池へと至る県道渋の湯・堀線、笹原溜池のわずか手前に、縄文時代の人々が築いた狩猟用の落とし穴が見つかった遺跡があります。それが笹原上(ささはらうえ)第1遺跡と第2遺跡です。

空から見た笹原上遺跡

笹原上(ささはらうえ)遺跡を空から見たところ(北から)。左端の貯水施設が笹原溜池で、点線の範囲が遺跡です。写真奥の遺跡が第1遺跡、手前が第2遺跡です。

狩猟用の落とし穴の形状と構造

狩猟用の落とし穴の形を見ると、円形や楕円形などさまざまな形をしています。深さはだいたい1メートルから1.2メートルほどだったと思われます。
これらの落とし穴には、底にさらにいくつかの小さい穴が掘られているものもあります。この小さい穴は、鉛筆のように先をとがらせた木(逆茂木さかもぎと呼びます)をセットするためのものだと考えられています。セットされた逆茂木の本数は落とし穴の形によって違っていて、円形やふっくらした楕円形のものでは1本、細長い楕円形では複数本セットしています。
なかには、途中で段をつけた落とし穴もあり、獲物が「落ちやすく、逃げにくい」構造になっています。

笹原上遺跡の落とし穴(円形)
円形の落とし穴(笹原上(ささはらうえ)第2遺跡29号土坑)。点線は底の輪郭。右の写真は逆茂木をセットした小さい穴。

笹原上遺跡の落とし穴(楕円形)
楕円形の落とし穴(笹原上(ささはらうえ)第1遺跡4号土坑【左】、同1号土坑【右】)。底に何本も逆茂木がセットされていたことがわかります。また、1号土坑は途中で段をつけて底の方は細くなっています。

こうした落とし穴がいつごろ作られて利用されたのか、ということははっきりしませんが、市内では泉野の馬捨場(うますてば)遺跡で年代決定ができた事例があり、それを参考にすると、笹原上(ささはらうえ)遺跡の落とし穴は縄文時代中期の初頭(5500年前)だと考えることもできます。

どのように狩猟をしたのか?

落とし穴の数は第1遺跡で32基、第2遺跡で56基見つかっています。形状ごとにみると、同じ形状のものがいくつか並行して並ぶような配置もあり、追い込み猟を思わせます。
けれども、逆茂木をセットする構造がのものが多いことや民族例から、放置しておき動物が落ちるのを待つ罠猟として利用していたと思われます。

尖石遺跡の史跡公園で見つけた動物の足跡

たぶん、こんな足跡をじっくり観察しながら、効果的に落とし穴を配置したのでしょう。

笹原上(ささはらうえ)遺跡から茅野市街地へ向けて斜面を下ると、縄文時代中期初頭~後期前半にかけての大集落である長峯遺跡があります。笹原上(ささはらうえ)遺跡の落とし穴の年代が、馬捨場(うますてば)遺跡を参考に考えた中期初頭だと仮説的に考えると、長峯集落に住んでいた縄文人たちの罠猟施設だった可能性が出てきます。直線距離で2キロメートル程度離れています。
ひょっとしたら、男衆が奥さんやお母さんに「ちょっと! またゴロゴロして! たまには落とし穴見に行ってきなさいよ!」と、しょっちゅうお尻を叩かれていたかもしれませんね。

笹原上遺跡と長峯遺跡

空から見た笹原上(ささはらうえ)遺跡と長峯遺跡の位置関係
(二つの遺跡の間にある下尾根遺跡も落とし穴が見つかっている遺跡です)

落とし穴はほかの遺跡からも見つかっています!

実はこの落とし穴、昭和40年(1965年)に市内の城ノ平(じょうのたいら)遺跡を宮坂英弌氏が調査をしたときにも見つかっています。宮坂氏はこの穴が何か考えるにあたり、直良信夫氏の『日本産獣類雑話・古代の漁猟』を参考に落とし穴の可能性があると思い、八幡一郎氏を通じて直良信夫氏に教示をお願いしたところ、確かに落とし穴の可能性があるということになりました。これがその後の落とし穴の調査研究のひとつのきっかけになりました。
市内では、この笹原上(ささはらうえ)遺跡や城ノ平(じょうのたいら)遺跡以外にも、大泉山の東側のふもとや西側のふもと、米沢にややまとまって見つかっています。
それらの遺跡も近くに集落遺跡があり、縄文時代の人々の日常的な活動の範囲が見えてきます。

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