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「63分の1」の遺跡 尖石遺跡

「63分の1」とは特別史跡であること。では、特別史跡とは?

特別史跡の指定基準

特別史跡とは、「史跡のうち、学術上の価値が特に高く、わが国文化の象徴たるもの」(『特別史跡名称天然記念物及び史跡名勝天然記念物指定基準』)とされています。令和5年(2023年)5月1日現在、全国で63件が指定を受けていますが、そのひとつが尖石遺跡(指定名称は「尖石石器時代遺跡」)です。

全国にはこんな特別史跡があります。

史跡及び特別史跡の合計1888件(名勝、天然記念物に重複指定されているものを含む)のうち、特別史跡は63件ですから、大変に厳選されていることがわかります。そのなかには、「五稜郭跡」(北海道函館市)、「姫路城跡」(兵庫県姫路市)、「慈照寺(銀閣寺)庭園」(京都府京都市)、「鹿苑寺(金閣寺)庭園」(京都府京都市)、「厳島」(広島県廿日市市)、「高松塚古墳」(奈良県明日香村)などが含まれており、教科書でもおなじみのものがほとんどです。あらためて、「わが国文化の象徴たるもの」という位置を与えられていることがわかります。

縄文時代の特別史跡は四つ

縄文時代の特別史跡は、この「尖石石器時代遺跡」のほかに、「三内丸山遺跡」(青森県青森市)、「大湯環状列石」(秋田県鹿角市)、「加曽利貝塚」(千葉県千葉市)の三つがあり、縄文時代の特別史跡は全部で四つということになります。

「尖石石器時代遺跡」はどんな遺跡なのか?

尖石遺跡は、昭和17年(1942年)に史跡に指定され、その十年後の昭和27年(1952年)に特別史跡に指定されました。

史跡に指定される前の尖石遺跡とその調査

尖石遺跡が学界に最初に報告されたのは明治26年(1893年)のことですが、本格的な調査は昭和5年(1930年)以降のことになります。当時の考古学の研究では、例えば、「弥生時代に稲作があったかどうか?」が大きな研究テーマの一つとして議論されていて(このことは、戦後すぐの登呂遺跡の発掘によって結論が出されます)、縄文時代はまだ「石器時代」と呼ぶのが一般的でした。その頃の縄文時代の研究は、主に日本各地の貝塚出土資料をもとに縄文式土器がどのように変化していったのか、そして地域ごとに特色のある土器のうち、ほぼ同時期に使われたものはどの土器かを追及する研究が、最新の研究として取り組まれていました。その研究は今日の縄文土器研究の基礎になっています。
このような研究情勢だったので、縄文時代の集落の構造に迫る、というような目的をもって発掘調査をおこなうことはありませんでした。そんななか、昭和15年(1940年)~昭和17年(1942年)の尖石遺跡の発掘調査によって、具体的な縄文時代の集落の景観をはじめてとらえたのです。少し詳しく記すと、尖石遺跡の竪穴住居は南北二つの群にまとまっていること、そして竪穴住居よりも小さい多数の穴や列石がその南北二つの竪穴住居群のあいだに構築されていて、それらはあたかも共有して使う公共施設のように存在している、というものでした。

尖石遺跡の遺構配置(昭和27年) 画像
尖石遺跡から見つかった竪穴住居などの諸施設分布図
(青い点線で示した範囲と赤い点線で示した範囲が、南北二つの竪穴住居群)

こうした発掘調査は、地元の小学校の教員だった宮坂英弌氏によっておこなわれました。宮坂英弌氏は大学で考古学を専門的に学んだわけではなく、もちろん大学で考古学の教鞭をとっていたわけでもありません。このことも尖石遺跡の特徴の一つといえます。

与助尾根遺跡の調査と水野正好氏の集落論

宮坂英弌氏は昭和21年(1946年)から尖石遺跡の北側にあたる与助尾根遺跡の調査にとりかかります。昭和24年(1949年)まで調査を実施し、竪穴住居28軒からなる縄文時代中期後半の集落遺跡であったことが判明しました。竪穴住居のさまざまな特徴、例えば炉石の有無、石柱石壇の存在などをしっかりと記録した調査でした。与助尾根遺跡の調査の成果は、尖石遺跡の調査成果と合わせて、昭和32年(1957年)に『尖石』という書名で刊行されました。
この『尖石』を丹念に読み、男女を反映した祭りのやり方で集落が成り立っていたのではないか、という仮説を提示したのが、水野正好氏でした。

水野正好氏の与助尾根遺跡の集落構造仮説 画像
水野正好氏が示した与助尾根集落の構造(水野1969より)
西群、東群それぞれに、「石柱祭壇」を持つ住居とそれに近接する住居(西群Aと東群a')、「土偶・石囲い」を持つ住居とそれに近接する住居(同じくBとb')、「石棒」を持つ住居とそれに近接する住居(同じくCとc')が認められる。さらに、炉石の有無で併存したかどうかという情報を加えると、「石柱石壇」を使う祭祀の2棟、「土偶」を使う祭祀の2棟、「石棒」を使う祭祀の2棟のセットが想定でき、そうした異なる複数の祭祀方式をベースに成り立った集落と考えた。

今日では、この「水野集落論」に対しての批判的な意見が多いのが事実です。それは、理念的、想念的すぎて、実際の考古資料によるぎりぎり最大の解釈とのあいだにさえ大きな隔たりが残ってしまう、という問題があるためです。また、その後の調査で与助尾根遺跡に新たな竪穴住居が見つかったことも、「2棟のセット」という仮説に重大な影響を与えているからです。

とはいえ、縄文時代の一つの集落を対象にして、集落の成り立ちの原理を視野に入れながら論じた点は、縄文集落の研究に大きな影響を与えたのも確かです。

その与助尾根遺跡は、平成5年(1993年)に特別史跡「尖石石器時代遺跡」に追加指定として、加えられました。

与助尾根遺跡の復元住居の写真

尖石遺跡と与助尾根遺跡の竪穴住居は、今日までの発掘調査で、200軒ほどが確認されています。これは、八ヶ岳山麓のなかでは規模が大きく、国宝「土偶」(縄文のビーナス)が出土した棚畑遺跡の竪穴住居数よりも多いのです。
そんな特別史跡「尖石石器時代遺跡」は、現在公園として整備されています。公園内には縄文時代の人々が親しんだであろうどんぐりが実る木々(クリ、コナラ、ミズナラなど)があり、秋にはたくさんの木の実が地面に落ちています。
尖石地区では「茅野市5000年尖石縄文まつり」を開催しています。与助尾根地区には同時に存在した可能性のある住居を6棟復元展示しています。まつりに参加する、どんぐり拾いに来てみる、そんな気軽な気持ちで「63分の1」の遺跡、特別史跡「尖石石器時代遺跡」に親しんでもらえればと思います。

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