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運動公園野球場のところにあった遺跡 下ノ原遺跡

運動公園の野球場とその駐車場に広がる遺跡、それが下ノ原遺跡です。

市民の皆さまは、玉川の運動公園をよく利用されることでしょう。各種スポーツはもちろん、春には桜を楽しんでいると思います。
その運動公園の野球場から駐車場にかけて、実は遺跡が見つかっています。それが下ノ原(しものはら)遺跡です。市役所本庁の正面入口わきの噴水のモデルになった土器が出土した遺跡です。

噴水のモデルになった土器

茅野市役所正面の噴水下ノ原遺跡出土土器(噴水のモデル)

おなじみのこの噴水です(左)。このモデルになった土器(右)が、下ノ原遺跡から出土しています。同じころの茅野市内のほかの土器と比べてもよくできている土器であるのは間違いありません。

下ノ原遺跡土器出土状況1下ノ原遺跡土器出土状況その2

見つかったようすです。当時の地面にこの土器がじゅうぶん収まるくらいの穴を掘り、その穴にセットしたような状態で見つかりました。
上の写真のうち、左側の写真がそのようすです。白い点線がこの土器を入れていた穴の範囲です。一点鎖線は同じころに作られた少し大きめの別の穴で、焼けた石が入っていました。調理施設でしょうか。
右の写真は、発掘が徐々に進んだようすです。土器の内部に破片があるのが見えると思いますが、これが実はこの土器の底付近の破片でした。つまり、掘った穴に収めるときに、底付近を壊してから穴に収め(または穴に収める前にすでに壊れていたのかもしれません)、土器の内側に土を詰めてから底付近の破片をその上に乗せた、ということになります。

しかし、これが何のための施設なのかはわかりません。よくできた土器なので、破片も含めて掘った穴に収めたということは、この土器に対する縄文時代の人々の並々ならぬ特別な思いがあったのかもしれません。

下ノ原遺跡の発掘調査のようす

野球場建設のための調査が昭和49年(1974年)に、駐車場建設のための調査が昭和51年(1976年)と昭和53年(1978年)に行われました。

運動公園前の道路のようす下ノ原遺跡の発掘調査のようす1

運動公園の建設をはじめる前のようす(左)。中央に走る未舗装の道路が、現在の運動公園前の道路です。
発掘調査が始まったときのようす(右)。2メートル四方の調査区(グリッド)を市松模様に発掘し、竪穴住居などがあるかどうかを探っている状況です。奥に見える白い建物は東海大学付属第三高等学校の校舎です。

下ノ原遺跡発掘のようすを遠方から眺めています下ノ原遺跡の発掘区のようす

下ノ原遺跡を発掘しているところを遠くから撮影したもの(左)。見づらいかもしれませんが、写真中央右寄りの赤土が見えるあたりが発掘区です。右端には東海大学付属第三高等学校の校舎、左端には野球場のバックスタンドが見えます。下ノ原遺跡発掘区全体を撮影したもの(右)。手前に市松模様に掘っていた2メートル四方のグリッドが見えます。写真奥には縄文時代の人たちが地面に掘った穴が見つかったため、グリッドを市松模様のように残さずに広げて発掘しています。

下ノ原遺跡から見つかったもの

3回におよんだ発掘調査で、竪穴住居が31(縄文時代前期のもの2、中期のもの26、後期のもの2、時期不明のもの1)、6つの穴が一組となって長方形に並ぶ「方形配置土坑」(掘立小屋のような施設の可能性があります)が6、食料を貯蔵した穴やお墓の穴など、地面に掘られた単独の穴が200以上見つかりました。

縄文時代中期の竪穴住居の一つ(第28号住居)第28号住居の土器出土状況

縄文時代中期の竪穴住居のひとつ、第28号住居(左)。直径4メートルほどの円形の竪穴住居です。ここに土器や弓矢などの家財道具や貯蔵食料を置くと、普段住まいの家(部屋?)としては狭いですね。一人暮らしならまだしも、家族住まいだとすれば、寝返りも満足に打てないでしょうし、寝ている間におならをされたらひとたまりもありませんね。それが原因で親子げんかをしていたかもしれません。
第28号住居から並んでつぶれた状態で出土した土器(右)。2つともほとんど欠けるところがなく復元でき、現在でも当館の人気展示物となっています。2つとも完成度が高いので、この土器の製作者が抜きんでた土器づくりの技能を持っていたことがわかります。加えて、このような状態で出土したので、この2つの土器を常にセットで使っていた可能性が高く、普段使いの土器というよりは、おごそかなイベントの時にだけ使う土器だったと思います。私たちの生活になぞらえて言えば、「お正月」の重箱や立派な漆塗りのお椀のような感じでしょうか。

下ノ原遺跡の縄文時代後期のお墓

縄文時代後期のお墓です。骨は溶けてしまって残っていませんが、さかさまにされた土器がお墓の可能性が極めて高いことを示しています。旧明科町(現・安曇野市)の北村遺跡等の調査によって、縄文時代後期の長野県では、遺体の顔面に丁寧に作った土器をさかさまにしてかぶせる、という風習があったことがわかっています。国宝「土偶」(仮面の女神)が出土した中ッ原遺跡でもそのように使われた土器が出土しており、8点が「附(つけたり)国宝」になっています。
それらの土器は、神様にささげる食物を盛るための器であり、神様を呼んでお祭りをしたのちに、器に残っている食物を縄文時代の人々が食べた、いわば「神人共食の器」だったのではないか、という説があります。そのような器をさかさまにして亡き人の顔にかぶせるというお葬式を縄文時代の人々がしていたことになります。すべてのお墓に供えられているわけではありませんので、「神人共食の器」を供えられた人というのは、その神事に関わる人だったのかもしれませんね。

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