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宮坂英弌の軌跡(1) 尖石遺跡との出会い

考古学の専門的な勉強をしたわけでもない宮坂英弌氏が尖石遺跡の調査に没頭するようになったのは、昭和4年(1929年)の伏見宮博英王殿下の諏訪郡内の遺跡発掘にお手伝いとして参加して以降のことになります。

小平雪人氏との出会い

明治20年(1887年)に豊平村南大塩に生まれた宮坂英弌氏は、明治38年(1905年)に諏訪中学校を卒業し、さまざまな職につきながら、大正11年(1922年)に泉野尋常高等小学校の教員となります。そして、このころに友人が句集を刊行したのをきっかけに、小平雪人(せつじん)氏が主宰する句会「牧馬会(まきばかい)」に入会します。実は、この小平雪人氏は、明治26年(1893年)に尖石遺跡を最初に学界に報告した小平小平治(こへいじ)氏の弟で、兄の書籍や収集品を収めた「龍谷文庫」を建設し、句作のかたわら郷土研究もしていました。
宮坂英弌氏は俳句のほかにも、和辻哲郎『日本古代文化』を読み、土器が日本民族の解明に役立つと学んでおり、これがのちの尖石遺跡の調査に結びついていくことになります。

小平雪人(せつじん)氏常設展示室Aの龍谷文庫の資料

小平雪人(せつじん)氏と尖石縄文考古館に展示されている「龍谷文庫」の資料

尖石遺跡と出会う

伏見宮博英王殿下の調査は、昭和3年(1928年)に東京で開催された「石器時代文化展覧会」に「龍谷文庫」のコレクションが出品され、それを見て大変興味を持たれたことによります。
翌年5月には調査候補地の下見に訪れた学習院の教授を小平雪人氏が案内をしますが、これに宮坂英弌氏も帯同します。そして、7月に実際に調査が行われます。現在の茅野市内では湖東村の山口遺跡と豊平村の尖石遺跡を発掘しました。この調査で、まずは発掘そのものの魅力に取りつかれることになります。

伏見宮殿下尖石遺跡に建てられた「伏見宮博英王殿下御台臨之地」の碑

伏見宮博英王殿下と、尖石遺跡の「伏見宮博英王殿下御台臨之地」の碑

伏見宮博英王殿下の調査の6日後には早くも現地で発掘をしますが、日記を見ると翌年の5月以降に尖石遺跡の発掘のことがたくさん書かれるようになります。ただし、この昭和5年(1930年)5月~6月の調査は、完全に近い状態の土器や珍しい形をした土器を狙った、とても調査と呼べるものではない宝探し的な性格が強いようです。

宝探しから本格的な調査へ

「土器が出るところ」=炉を集中的に狙って掘っていたところ、「尖石林道で珍しい土器を発見した」ので、郷土史に造詣が深かった豊平尋常小学校の今井広亀(ひろき)氏に連絡しました。今井氏は同校の教員数名と発掘に参加しましたが、学校の写真機も持っていき、発掘の記録写真を撮りました。この今井氏の記録をとる様子を見て、宝探し的な発掘は徐々にしなくなり、3年後の昭和8年(1933年)には炉の構造を図面に記録しています。その図面は、炉の平面の記録(上から見た図)、炉の断面の記録(炉を真横から見た図)が残されており、大きさや形、深さが正確にわかるものでした。

昭和5年(1930年)発掘の炉の写真 昭和5年(1930年)に発掘した炉のひとつ

炉の図面炉の図面の展示風景

炉の図面。炉の図面の一部は、常設展示室Aに展示しています。

昭和5年(1930年)にはじまる「土器の出るところ」=炉の発掘調査は、宝探し的な性格からきちんと記録をとる本格的な調査になりながら約10年間続けられ、51の炉を調査しました。これらの炉には、石で囲われたものとそうでないものとがあり、宮坂英弌氏は石で囲われたものを炉、そうでないものはたき火跡と区別しました。また、石で囲われた炉にも、(1)小さめの石を円形または楕円形に地面に並べた浅いタイプ、(2)大きくて扁平な石を、深く方形に掘り込んだ穴に立てたタイプの2つがあり、浅いタイプは煮沸や暖房に使ったもの、深いタイプは土器を焼くためのもの、と性格の違いがあるのではないかと論じました。

炉の調査から竪穴住居の調査へ

昭和11年(1936年)に南作場道で大小二つの石囲い炉が6メートルほどの間隔をおいて見つかりました。この炉について、岡谷市出身で東京帝国大学人類学教室に籍を置いていた八幡一郎氏に視察してもらったところ、「炉の周りには必ず柱の穴があるはずだから広げて掘ってみてはどうか」と指導を受けたので、大小二つの炉の周囲を1メートルほど発掘したら、確かに柱の穴が見つかり、竪穴住居の床面も顔を出しました。尖石遺跡ではじめて住居という施設が認識されたわけです。

昭和11年(1936年)の炉の調査

昭和11年(1936年)の大小二つの炉の調査。炉に近接して柱穴が確認できる。

このころ、諏訪一帯で桑畑を野菜畑に転換する農家が増え、豊平村でも同様でした。そんな農地では、土器や石器がたくさん掘り出されていました。尖石遺跡で住居をはじめてとらえた調査の3年後の昭和14年(1939年)、そうした畑のひとつで石囲い炉とそこにセットされた土器を発見し、八幡一郎氏に指導を仰ぎながら、郷土史に関心のある地元の人たちとはじめて竪穴住居ひとつを完全に発掘しました。この遺跡は日向上(ひなたうえ)遺跡と呼ぶ遺跡で、だいたい現在の豊平郵便局のあたりにある遺跡です。

日向上遺跡の竪穴住居日向上遺跡の竪穴住居の記録図面

日向上遺跡の竪穴住居(完掘状況)。記録図面は常設展示室Aに展示しています。

日向上遺跡の住居の脇に見つかった黒曜石集積 日向上遺跡の住居の脇に見つかった黒曜石集積

この日向上遺跡の竪穴住居の完全発掘以降、昭和5年(1930年)から親しんできた尖石遺跡での竪穴住居の発掘へと邁進していくことになります。「宮坂英弌の軌跡(2) 集落解き明かす」に続きます。

関連情報

地図情報

尖石石器時代遺跡

(問い合わせ先)茅野市尖石縄文考古館
391-0213 長野県茅野市豊平4734-132
電話 0266-76-2270

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