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宮坂英弌の軌跡(2) 集落を解き明かす

昭和15年(1940年)~昭和17年(1942年)の3年間、尖石遺跡の本格的な発掘調査に取り組みます。

昭和15年(1940年)~昭和16年(1941年)の発掘調査

昭和15年(1940年)に発掘した尖石遺跡の住居は、全部で16か所でした。雪解け間もない4月に、第1号住居址を矢島数由氏、小平幸衛氏の二人の協力を得て1軒の住居を発掘しました。
6月には東京考古学会が尖石遺跡を訪れ、地元の細川隼人氏、小平雪人氏、今井広亀氏、小平定太氏、矢島数由氏ほか、泉野尋常小学校教員や高等科の生徒も参加して、複数の住居を発掘しました。この時の調査には、のちに横浜市南堀(みなんぼり)貝塚の調査成果をもとに縄文時代の集落研究をリードしていく和島誠一氏も参加していました。

東京考古学会の尖石遺跡の発掘調査
昭和15年(1940年)の東京考古学会による尖石遺跡の発掘調査

10月になると、今度は大山柏氏が所長を務めた大山史前学研究所が調査に訪れます。

昭和15年(1940年)の大山史前学研究所の尖石遺跡の発掘調査土器を前にした大山柏氏(中央)
昭和15年(1940年)の大山史前学研究所による尖石遺跡の発掘調査

翌昭和16年(1941年)は4か所の住居の発掘と、トレンチ調査によってたくさんの竪穴住居の可能性ある掘り込みを確認しました。この年の発掘調査は、中央公論社が主催する国民学術協会の研究助成金を得て行われています。

昭和17年(1942年)の調査と国史跡への指定

昭和17年(1942年)の調査は、すでに戦争が始まっていて、大変な状況下での調査だったと思われます。この年の調査では、まったく予想していなかった住居以外の小竪穴群や列石などが出土し、竪穴住居の配置とあわせて、縄文時代の尖石がどのような姿であったのか、考える重要な節目となったようです。

昭和17年(1942年)の尖石遺跡の調査昭和17年(1942年)の調査で出土した石で蓋をされた大形の土器

昭和17年(1942年)の発掘調査にて。左の写真は、左から宮坂英弌、八幡一郎、島村孝五郎(東京考古学会)、矢島数由の各氏。右の写真は、住居とは離れて個別に出土した大きな石で蓋をしたかのような土器を掘り出しているところ。

昭和17年(1942年)の調査で見つかった小竪穴群と列石列石の拡大写真

南北二つの住居群のまとまりのあいだに見つかった小竪穴群と列石。左の写真の奥に写っている人物が宮坂英弌氏で、宮坂氏の手前に見える石が列石。その列石を拡大して撮影した写真が右の画像。

この3か年の調査成果と尖石遺跡の集落景観については、昭和21年(1946年)に「尖石先史聚落址(しゅうらくし)の研究(梗概(こうがい)) 日本石器時代中部山岳地帯の文化」と題して発表されます(『諏訪史談会報』第3号所収)。以下、その部分を引用します。

「南作場道より南の斜面にかけて、住居址三十か所と石囲炉址が十四か所、従って総計四十四箇所の住居址が東西に長く存在し、これを南住居地区と仮称し、また北林道に沿って住居址一か所と石囲炉址七か所が、ここにも住居地区が想定される。これを北住居地区とする。そしてこの南北両住居地区の中間、その広い地域に埋葬所であろうか、粘土採掘所であろうか、あるいは貯蔵庫ででもあろうか、一連の竪穴群がまた、祭祀の址とも推定される円形に配列された列石群と、それに続く一大独立土器の存在や、その他その時代の地表面に構築された炉址等謂わば、公衆的設備とも推定し得られる遺構からなる社会的地区があった」
(一部旧字体や旧仮名遣いをあらためています。)

この、南北二つの居住区とそれに挟まれた公共施設から尖石集落が成り立っている、という考え方が、実は縄文時代の集落の構造に初めて言及したものであり、そのために尖石遺跡が「縄文時代集落研究の原点」と評価されているのです。

また、この年の9月23日に尖石遺跡は国指定史跡となり、発掘も終了することになります。

文部省斉藤忠氏(右)と宮坂英弌氏

尖石で、史跡指定の視察で訪れた斉藤忠氏と記念撮影

昭和21年(1946年)の与助尾根遺跡の発掘調査

昭和10年(1935年)に存在が明らかになった与助尾根遺跡は、尖石遺跡の北、一本沢を挟んだ細長い台地状の尾根に立地しています。昭和21年(1946年)の10月にひょんなことから与助尾根遺跡で1つの住居址を発掘したことがきっかけとなり、同年に現地見学会ともう1つの住居の発掘を実施し、翌昭和22年(1947年)から昭和26年(1952年)まで、与助尾根遺跡の発掘調査をおこないました。
この調査によって28か所の住居を発掘しました。第7号住居からはそれまでに見なかったような石柱のある祭壇が出土したり、隣り合う3つの住居が、わずかな重なり方と炉に設置された石の有無で構築された順番をとらえるなどの成果を得ています。また、地形的に見て、集落のほぼ全域を発掘しており、尖石遺跡では達成できなかったひとつの集落の完全発掘を果たした調査でもありました(後の茅野市教委委員会の調査で、新たな住居が複数見つかっています)。

第7号住居の石柱のある祭壇隣り合う3つの住居

第7号住居の石柱のある祭壇(左)と隣り合うわずかな時間差をもって構築された住居(右)

昭和24年(1949年)の尖石と与助尾根の集落見取り図

尖石遺跡と与助尾根遺跡の調査成果を盛り込んだ集落の見取り図

尖石遺跡の青い点線が「南居住地区」、赤い点線が「北居住地区」、その間の「列石」「小竪穴群」が「公共的設備」とされたもの

ところで、この与助尾根遺跡の調査には、地元の高校生や中学生や若手研究者も多数参加しました。そのなかには、この後に縄文中期農耕論で縄文時代の生業論を大きくリードしていく藤森栄一氏や、のちに明治大学教授となる戸沢充則(みつのり)氏が参加していました。後進の教育という点でも宮坂英弌氏が図らずも大きな足跡を残したことになります。

与助尾根遺跡の調査に参加した中学生や高校生と記念撮影

与助尾根遺跡の発掘調査の記念撮影

宮坂英弌氏は、こののち、尖石考古館の建設をはじめとして、教育普及活動も重点的に取り組んでいくことになります。続きは「宮坂英弌の軌跡(3) 尖石考古館の建設」をご覧ください。

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