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宮坂英弌の軌跡(4) 旧石器文化の探求

霧ヶ峰周辺は黒曜石の産地として広く知られており、大正13年(1924年)の『諏訪史』第一巻(鳥居龍蔵著)掲載の地図には八ヶ岳の一部にも黒曜石原産地があるとされています。
この八ヶ岳の原産地は冷山(つめたやま)であり、今日の黒曜石の産地推定分析では日本の旧石器時代でもかなり古い時期から関東地方に持ち運ばれたことがわかっています。
実は、この冷山の黒曜石露頭のやや斜面下方に、渋川遺跡があります。渋川遺跡は、旧石器時代の黒曜石原産地直下の遺跡のひとつですが、宮坂英弌氏はこの渋川遺跡も精力的に調査しました。

岩宿遺跡の発見と茶臼山遺跡の調査

昭和24年(1949年)、群馬県の岩宿でローム層中から土器を伴わない石器文化の存在が確認されました。当時は「無土器文化」「先縄文文化」「先土器文化」などと呼ばれ、今日では旧石器文化と呼ばれる文化、時代の石器でした。
この岩宿遺跡の発見ののち、日本各地で旧石器文化の探求は一種ブームのようになり、諏訪地方でも茶臼山遺跡(諏訪市)がいち早く調査され、その存在がにわかにクローズアップされることになりました。
茶臼山遺跡の調査に続いて、宮坂英弌氏もこの旧石器文化を探っていくことになります。そして、渋川遺跡の調査を実施することになります。

渋川遺跡の調査

縄文時代の石器はもちろん、茶臼山遺跡で発見された旧石器文化の石器にも黒曜石が使われていました。渋川遺跡の報告には「昭和30年11月、冷山を踏査しての帰途、山径の路面に黒曜石屑の輝くのを不審に思ったので、翌31年6月、この地点を掘り下げ始めて地表下のローム層に黒曜石剥片石器を包含する先土器文化層を発見した。」とあります。
黒曜石の原石の産地を探っていたところ、渋川遺跡を発見した、ということのようです。渋川遺跡の発掘調査は、昭和31年(1956年)ののち、昭和33年(1958年)~35年(1960年)、昭和40年(1965年)にかけておこなわれました。

渋の湯温泉から冷山を望む写真
渋の湯温泉(手前の建物)付近から冷山の黒曜石露頭方向を望む(矢印付近)

道路切通しに露出するローム面の調査をする宮坂英弌氏の写真道路切通しローム面から出土した黒曜石の石器の写真
道路の切り通しに露出したローム面で黒曜石の石器があるかどうか、調査をしたところ、尖頭器(せんとうき、石槍のこと)が出土しました。

渋川遺跡調査風景写真渋川遺跡調査風景写真2枚目
渋川遺跡の調査風景です。

調査の結果、渋川遺跡には4つの地点があり、時間差をもった石器文化が残されたと考えました。

白樺湖周辺の旧石器文化遺跡の調査

冷山の踏査をしていた昭和30年(1955年)、すでに白樺湖の二つの遺跡で旧石器文化の遺跡の調査を実施しています。それが対山館(たいざんかん)遺跡と南岸遺跡です。

南岸遺跡の調査前と思われる写真
「三井山荘 裏庭岩塊群」とメモ書きされた写真、南岸遺跡の調査前か?

発掘は小規模で、対山館遺跡では旅館建設のために山体を切り崩して露出したローム層から黒曜石の石器が出土したため、6月と8月に調査をしました。南岸遺跡は、6月と8月に調査した対山館遺跡のこともあり、白樺湖周辺の遺跡の有無を踏査していた際に、キャンプ場のキャンプ設営で掘り返した土の中に黒曜石があるのに土器がないことを確認して、10月に発掘をしたところ、旧石器文化の石器が出土し、翌昭和31年(1956年)に本調査を実施しています。この本調査には、親交温めた和島誠一氏や昭和29年(1954年)に尖石遺跡第33号住居を調査した三笠宮殿下も参加しています。
年代的には古そうな石器が出土した対山館遺跡と、新しそうな石器が出土した南岸遺跡と上々の成果を上げたと言えます。加えて、こののち、共同で調査を進めていくことになる大門村(現・長和町)の児玉司農武(しのぶ)氏が南岸遺跡の本調査に参加していることも大きな成果だったと言えます。

大門村(現・長和町)の児玉司農武(しのぶ)氏との共同調査

南岸遺跡の調査ののち、渋川遺跡の調査を進めるかたわら、大門村の児玉氏と情報交換をしながら、さらに旧石器文化の探求を進めていきます。昭和35年(1960年)には白樺湖の手前で御小屋之久保遺跡を発見し、同年から昭和37年(1962年)まで4回にわたって発掘をしました。

御小屋之久保遺跡の写真
御小屋之久保遺跡。写真中央の白いところが調査区。左手奥には未舗装の大門街道が見えます。

御小屋之久保遺跡の写真2枚目御小屋之久保遺跡の写真3枚目
御小屋之久保遺跡の調査風景と記念撮影。記念撮影の一番右の前から二人目が大門村の児玉氏。

続いて昭和38年(1963年)には、その数年前から目をつけていた割橋遺跡(長和町)の調査をします。その翌年の昭和39年(1964年)には、児玉氏が発見し、すでに昭和36年(1961年)に信州ローム研究会が発掘をしていた鷹山遺跡(長和町)の調査をおこないます。

鷹山遺跡の写真 
鷹山遺跡。写真奥の山が虫倉山で、左側のラクダのこぶのようなところから虫倉山の木がまばらなあたりが、国史跡に指定された星糞峠黒曜石原産地遺跡のあるところ。

鷹山遺跡の写真2枚目鷹山遺跡の写真3枚目
鷹山遺跡の調査風景。左の写真は、背後に星糞峠が見えます。調査区は、現在ブランシェたかやまスキー場の駐車場付近に設定されました。右の写真を見ると、その雰囲気が少し伝わるでしょうか。

これらの調査はいずれも児玉氏と共同でおこなったもので、信州黒曜石原産地遺跡の調査の基礎となったものでした。

中部山岳地帯の旧石器文化研究の一里塚『蓼科』

これらの成果は、早くも昭和41年(1966年)に『蓼科』としてまとめられ、その後昭和61年(1986年)に『茅野市史』上巻が刊行されるまで、中部山岳地帯の旧石器文化研究の金字塔でした。
『蓼科』のまとめには、黒曜石の見た目による産地ごとの違いと、遺跡の立地場所とをあわせて検討し、各遺跡で使用している黒曜石は、冷山や和田峠といった原産地から離れるにしたがって、それぞれの産地の黒曜石の保有量が減っていくようだ、と指摘しています。
今日、科学的に黒曜石の産地推定分析ができるようになりましたが、長和町の割橋遺跡から出土した石器を実際に分析すると、和田峠の黒曜石と冷山の黒曜石の量がほぼ同量であることが確認されています。
冷山原産地直下の渋川遺跡、和田峠により近く、星糞峠原産地直下の鷹山遺跡、その両者の中間にある白樺湖周辺の遺跡と割橋遺跡の調査を精力的に実施したことで、優れた成果を残すことができたと言えるでしょう。

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