【茅野市のスケート文化】スケート年表
諏訪のできごと と スケートあれこれ
諏訪地方のできごとを中心にスケート年表を作成しました。
この年表は主に、「堀忠雄著(1975年)『日本スケート史』日本スケート史刊行会出版」に掲載の情報で作成しています。
年代 | 月 |
できごと |
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1903(明治36)年頃 | 諏訪湖で滑り始める | |
1905(明治38)年頃 | 小中学校でスケートが行われるようになる | |
1905(明治38)年 | 11月頃 | 中央線が岡谷まで開通し、東京との交通の便が開けたことで、諏訪はスケートの中心地に |
1906(明治39)年 | 1月 | 下諏訪で下駄スケート製作が始まる |
1908(明治41)年 | 諏訪湖一周スケート大会開催 (諏訪湖氷辷会主催、南信日日新聞社後援) |
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1910(明治43)年頃 | 学校単位や諏訪教育会主催で各種氷上運動会が行われる | |
1910(明治43)年 | 1月 | 諏訪東部氷滑大会開催(茅野で初めて開かれたスケート大会) |
1924(大正13)年 | 全日本スピード選手権大会(日本初開催) (上諏訪スケート倶楽部主催) |
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1935(昭和10)年 | 宮川村出身の小池富治がスピード部トレーナー兼会場視察員として、第4回冬季オリンピック(ドイツ)に派遣される | |
1952(昭和27)年 | 2月 | 第6回冬季オリンピックオスロ大会に宮川村出身の五味が参加 |
1952(昭和27)年 | 蓼科湖に特設リンク設置 | |
1955(昭和30)年 | 2月 | 1町8ヶ村が合併し茅野町へ 茅野町体育協会が発足 |
1956(昭和31)年頃 | 白樺湖がスケート合宿の地として賑わう | |
1957(昭和32)年 | 玉川小学校の校庭にスケート場設置 以後、校庭スケート場が茅野市内の学校に設置されるようになる |
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1958(昭和33)年 | 8月 | 市制施行により、茅野町体育協会が茅野市体育協会に改称、 下部組織として茅野市スケート協会が発足 |
1960(昭和35)年から | 蓼科湖や城の平でインターハイ、インターカレッジなどの大会が相次いで開催 | |
1960(昭和35)年 | 2月 | 第8回全信州スピードスケート選手権大会開催(白樺湖初の大きな大会) |
1960(昭和35)年 | 12月 | 白樺湖スケートセンターの完工式とリンク開き |
1964(昭和39)年 | 諏訪湖の結氷不良が多く、軽井沢中心の東信方面が人気に | |
1965(昭和40)年 | 1月 | 長野県下のリンク閉鎖が相次ぐ |
1965(昭和40)年頃 | 城の平スケート場オープン | |
1981(昭和56)年頃 | 人工リンクと言われるパイピングリンクが施設され、自然氷相手のリンクは姿を消していく | |
1989(平成元)年 | 茅野市運動公園国際スケートセンターオープン | |
1989(平成元)年 | 各学校の校庭リンクが相次いで閉鎖 | |
1998(平成10)年 | 2月 | 長野オリンピック開催 |
2018(平成30)年 | 11月 | 茅野市運動公園国際スケートセンターが「NAO ice OVAL」に改称 |
親から子へ 人から人へ 「茅野市のスケート文化」
茅野市にはスケート授業や校庭リンクがあり、古くから地域にスケート文化が根付いています。
そこには、スケートに携わる地域の人々の強い思いがあります。
動画版「茅野市のスケート文化」
校庭リンクは、こうやって作られる!
スケートの盛んな茅野市ですが、少子化によるスケート人口の減少や温暖化によるリンクづくりの難しさなどの課題も抱えています。
平成元年(1989年)以降、茅野市国際スケートセンターの開設に伴い、校庭リンクを有する学校は激減しました。現在は、泉野小学校と金沢小学校で校庭リンクが地域の人々によって作り続けられています。