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展示物についてのよくあるご質問

国宝「土偶」(縄文のビーナス、仮面の女神)をはじめとする展示物について、様々な質問が寄せられています。よく聞かれる質問についてまとめました。

国宝「土偶」(縄文のビーナス)

国宝「土偶」(仮面の女神)

2体の国宝「土偶

その他

国宝「土偶」(縄文のビーナス)

頭の模様

「縄文のビーナス」の頭の表現は何を表しているのでしょうか。2つの説をご紹介します。
頭部をよく観察すると両耳が出ています。この表現から、両耳がスポッと出るような被り物をしているのではないでしょうか?
2つ目は髪型説です。頭頂部に大きな渦巻き状に髪を結い、そして、後頭部にある丸い突起がお団子をまとめたかたちを表し、模様全体が髪型の表現ではないか?ともいわれています。

胸の部分でキラキラ輝くものの正体

正体は黒雲母です。土偶の材料は黒雲母を多く混ぜた粘土で用いているからです。

国宝「土偶」(仮面の女神)

女性なのか、男性なのか

「縄文のビーナス」のようにパッと見て女性だと感じられる点は少ないですが、下半身の表現や、「仮面の女神」のCT画像を見ると、お腹を膨らませるために粘土を付け足し妊娠した女性の姿を表していることから、女性像と考えられます。
なお、土偶のほとんどは女性を表現しています。それは、乳房や妊娠状態の表現から認識できます。しかしながら、なかには男性かもしれない表現の土偶もあります。股間に突起物のある例はその可能性が十分に考えられます(出産の表現と考えることもできます)。また、北海道の大麻(おおあさ)3遺跡で墓壙からセットで出土した板状の土偶2体は、ひとつが丸みを帯びて腰が膨らんでいるので女性らしく見えますが、もうひとつは肩幅もあってがっしりとした体格に見えることから男性を表現したと考える研究者もいます。

浅鉢形土器が国宝の附(つけたり)になった理由

「仮面の女神」が見つかった墓穴の周囲から、8点の浅鉢形土器が見つかっています。これらの浅鉢形土器によって、「仮面の女神」の製作時期や、縄文時代後期の埋葬方法を知ることができました。そういった観点から、「仮面の女神」の価値を高めるものとして、国宝附(つけたり)として指定を受けています。

浅鉢形土器の用途と、精製浅鉢形土器の使用方法

鉢被葬(はちかぶせそう)に使われたものと考えられています。鉢被葬とは、亡くなった人の顔の部分に鉢を被せる埋葬方法で、縄文時代後期に中部地域を中心に行われています。では、これらの精製浅鉢形土器は埋葬のために作られたのでしょうか。その答えはまだわからないのですが、縄文時代後期の土器についてお話しします。
縄文時代後期には、非常に丁寧な作りの土器(精製土器)とそれほど丁寧ではない作りの土器(粗製土器)の作り分けがはっきりしてきます。粗製土器を日常の器、精製土器を儀礼用の器という説、あるいは粗製土器を下ごしらえ調理用の器、精製土器を盛り付け用、お供え用の器という説もあります。そのような作り分け、使い分けがされる精製土器がすべてのお墓から出土するわけでもありません。こうした状況を総合的に考えていくと、精製土器の限定された厳かな用途や、精製土器とともに埋葬された人物も社会的に重要な人物であったと想定することができます。

「仮面の女神」の仮面

「仮面の女神」を横から見ると首の部分に紐のような表現があり、この紐が首の後ろまで続き、後頭部で縛ったようなまるで逆三角形の仮面を被ったような表現になっています。
仮面を被ることで、人間ではない別の存在に変身することができ、神に代わってマツリを行う、そんな存在を表現したのではないでしょうか。

身体の文様の意味

「縄文のビーナス」と比べて、「仮面の女神」の体には無数の文様が付けられています。この文様は一体何を表しているのでしょうか?
首の部分を前から見るとVの字に開いていて、Vネックのような衣服を着た表現のようにも見えます。また、針のようなもので細かく描かれた文様はまるでいれずみのようです。
いれずみについて深く掘り下げると、『魏志倭人伝』にいれずみの記載があります。いわゆる『魏志倭人伝』は弥生時代後半のことを記していますが、弥生時代の「人をかたどった土器」を見ると、やはり顔面にいれずみと思われる文様があります。こうした「人をかたどった土器」は考古学的には縄文文化の伝統の名残と考えられ、縄文時代の土偶等にも鯨面(げいめん:いれずみのある顔)と思われるものがあることから、縄文時代のいれずみの存在が想定でき、そして「仮面の女神」の文様がいれずみを表現したものだと想定できます。
ただし、土偶に施される文様は、一般にそのときそのときの土器の文様と共通していることから、衣服やいれずみを表現したものではなく、土偶には文様を入れる厳格な「きまり」があって、そのときどきの土器と共通した文様を施しただけ、とも考えられます。

首の穴の役割

中空構造の「仮面の女神」を焼く際に、空気抜きの穴としての役割をしていた、または、首の穴に紐などを通して吊るした際の穴だとか考えられていますが、よく見ると、孔の縁に紐ずれなどは見られず、むしろ孔を縁取るように線が引かれているため、文様としての意味合いも込められているのではないでしょうか。

「仮面の女神」の色

「展示されている「仮面の女神」の実物と、出土時の写真の色が違うが、どちらが本当の色ですか?」と聞かれることがあります。これは、出土状態の写真を撮影するときに、「仮面の女神」の周辺の土が乾かないように霧吹きで水をかけ、さらに影を消すために穴の周りを、青いビニールシートで囲い日陰を作った際、そのビニールシートの色が反射し、「仮面の女神」も青っぽく写ってしまったようです。そのため、展示している実物の色こそ、「仮面の女神」そのものの色となります。

2体の国宝「土偶」

土偶の使われ方

土偶の使われ方については諸説あります。1つの例として「身代わり説」があります。自身の不調を治すために、不調が出ている部分と土偶の同じ部分(自身の右足が痛ければ、その部分と同じ土偶の右足)を壊すことで、不調が治るように願う身代わりとして使っていたという説です。そのため、多くの土偶が完形ではなく、バラバラな状態で見つかっています。
しかし、「縄文のビーナス」と「仮面の女神」は、ほとんど完形の状態で見つかっていること、また、「縄文のビーナス」は集落中央の広場の穴から見つかっていること、「仮面の女神」は副葬品と考えられることから、一般的な土偶とは違う使われ方がされていたといえます。
では、2体の土偶はどのような使われ方をしていたのでしょうか。
「縄文のビーナス」のお腹は大きく張り出し、妊娠した姿を表しています。また、どっしりとした全体像は安産型ともいわれています。こうした「縄文のビーナス」は安産祈願や子孫繁栄を願ったマツリに祀られたのでしょうか。
一方、「仮面の女神」が作られた縄文時代後期は、中期から後期にかけての気候の寒冷化に伴い、集落や人口が減少し、これまでの生活を維持しにくくなったと想定できます。そのため、集落構成員や地域内の集落の結びつきを維持・強化する必要が生じました。威圧感のあるデザインの「仮面の女神」は、より厳格な儀礼行為を規格的組織的にして共有するためのツールとして作られたのではないでしょうか。

作り方の違い(中実・中空)

縄文時代中期(約5000年前)に作られた「縄文のビーナス」は、粘土の塊による体、頭、両手、両足のパーツを組み立て形作った中実土偶と呼ばれる作りです。中実土偶は焼く際に粘土に含まれる空気が、膨張し割れる可能性の高い作り方です。また、総重量2.14kgの粘土の塊を高さ27cmの立像に組み立てるには熟練した技術が必要です。
これに対して縄文時代後期(約4000年前)に作られた「仮面の女神」は、粘土紐を輪にして積み上げて作る輪積み法を用い、全体を中空構造にしています。内部が中空となることから、空気膨張や、うまく熱が伝わる構造だと考えられます。やはり高さ34cm、総重量2.76kgの立像を中空構造で製作するには卓越した技術が必要です。

土偶が国宝になった理由

土偶は全国で約2万点以上発見されています。しかし、縄文時代の土偶で国宝に指定されているのは5点のみです。なぜ、「縄文のビーナス」と「仮面の女神」は国宝に指定されたのでしょうか。理由として、造形的に優れていること、一般的な土偶と比べて大型であること、出土状況が明らかであること、この3点があげられます。

土偶の大きさ

「国宝の土偶って意外と小さいですね!」といった声が非常に多く聞かれます。では、土偶で一番小さいものはどれくらいかというと、2万点ある土偶の中で縄文時代早期の千葉県小室上台(こむろうえだい)貝塚のものが一番小さく、1~2cmほどの大きさしかありません。「縄文のビーナス」と同じ縄文時代中期でも一般的な大きさは10cm前後ですので、「意外と小さい」としても、土偶の中では大きいものといえます。

土偶と埴輪の違い

土偶と埴輪を混同してしまう方もいるかと思いますが、この2つは使われた時代、目的など、多くの部分で異なっています。
土偶は縄文時代に作られた主に、祈りや願いを込め、ムラのマツリで用いたマツリの道具だったと考えられています。
一方の埴輪は古墳時代に作られ、古墳を飾り埋葬者に対して死後の世界へ供えた物とも考えられ、人物、動物、家屋、器財などが並べられています。窯を用い大量生産され、古墳を囲むように並べられる様子は、埋葬者の権力を表しているようにも見えます。

その他

茅野周辺に遺跡、特に縄文時代中期の遺跡が多い理由

住みやすい気候、豊富な動植物、黒曜石原産地があったからだといわれています。
旧石器時代、弥生時代は、人が住むには寒すぎる気候だったようです。縄文時代(特に中期の時代)は、今よりも平均気温が高かったと考えられ、人が比較的住みやすい気候でした。
また、八ヶ岳山麓は、狩猟、採集をメインとする縄文人にとって、シカやウサギなどの動物や、クリやコナラをはじめとする木の実、山菜などが豊富で、食料の確保が比較的容易な場所であったと考えられています。
さらに、考古館から八ヶ岳山中に登って行った冷山(つめたやま)は黒曜石の産地で、考古館の北西方向にある霧ヶ峰の山中にも、黒曜石の原産地があります。
当時黒曜石は、突き刺す・切る・削る・穴をあける等に用いられる道具の原材料として、縄文人にとって必要不可欠な材料でした。また、化学的な分析によって、特に霧ヶ峰産の黒曜石が全国各地へ広く供給されたこともわかっています。

何年前から縄文時代なのか

主に、放射性炭素年代によって算出しています。近年では年輪年代と組み合わせるなどして、私たちが記録してきた暦やカレンダーに合わせて、放射性炭素年代の値を計算し直す研究も行われています。そうした研究成果に対しては考古学者によってさまざまな意見がありますが、当館のパンフレットでは放射性炭素年代で示された約1万3千年前からと記しています。

装飾品(耳飾り、首飾り)

当館では土偶や土器以外に、縄文時代の装飾品の展示も行っています。展示室Cに耳飾りと首飾りの展示があります。
縄文時代の耳飾りは、現代と比べるとかなり大型で重量感もあります。この耳飾りをどのように耳に付けていたのでしょうか。現代風にいえばピアス状に耳たぶにはめていたと考えられます。耳飾りは、基本的に成人した女性が付け、最初は小さくて軽いものから付け始め、徐々に大きくて重いものへと耳飾りをはめる穴を大きくしていったものと考えられます。
また、耳飾りの文様は家ごと、村ごと、集落ごとで違っていたものと考えられ、そのため、つけている耳飾りの文様を見れば、どこの出身かわかったともいわれています。
首飾りは、ヒスイやコハクなど、いずれも八ヶ岳山麓では採れないもので、ヒスイやコハクの原産地で作られ、遠くから運ばれてきたものです。諏訪地域で産出する黒曜石製石器が北は北海道、西は三重県で発見されていることなどを考えると、ものや人の交流によりもたらされたものと考えられます。
ヒスイやコハクの首飾りは、貴重品で誰もが身に着けることができたわけではありません。ムラの長など付けていたと考えられ、一種の力の証だったともいわれています。
この様に、耳飾りも首飾りも、現代のようにオシャレのための道具というよりは、自分のことを周囲に知らせたり、自身の権力を表したりする役割を担っていたと考えられます。

ヒスイの穴あけ

ヒスイ製の大珠、垂れ飾りにあいている穴はきれいに見えます。金属もない時代にどうやって穴があけられたのか、疑問に思われる方も多いようです。
実際には、どうにかして穴をあけたとしか言いようがありません。ヒスイ製の垂れ飾りに使われた石のモース硬度は6.5~7.0だとされますが、縄文時代にも入手できた砂と竹で実験し、穴をあけることができた、という研究もあります。
なお、あきかけの穴が残っているものもあり、それらを見ると、棒状の工具や管状の工具を使っていたことがわかります。

土器の用途

一般的に土器は、多くが煮炊きに使われたことが考えられています。しかし、煮炊き土器が埋葬用の埋甕に転用されるなど、様々な用途がありました。土器の出現は、人々の生活を豊かにしたといえるでしょう。

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