感染症と人類(考古学的な感染症の痕跡)
感染症と人類、病気と人類
衣食住、とよく言いますが、生きていくうえで、それらに加えてもう一つ重要なのは「医」だと思います。現代の私たちがそうであるように、縄文時代の人々も、痛みや発熱などの体調不良が起きたときに、何とかして元通りになるよう手を尽くしたと思われます。
(左) 古代エジプトのホルス神の左目(「ウアジェトの目」)は「失ったものを回復させる」「癒し・修復」の象徴とされた。死者に供えられることもあった。
(右) 古代エジプトの外科用の道具
(いずれも、パリ医学史博物館展示資料、撮影は当館学芸員)
そうした体の不調には感染症を原因とするものもあったと思われますが、消毒法が主にジョセフ・リスターによって確立されるのは19世紀後半ですので、縄文時代においても感染症には悩まされていたに違いありません。
しかしながら、日本では考古学的な証拠として、感染症をはっきりと確認することは難しいのが実際です。というのも、病気の履歴は遺体から探るほかないのですが(例外的に糞石から寄生虫の有無を調べることもできますが)、日本のようにミイラ化した遺体がないうえに、人骨も限られた遺跡からしか得られないこと、さらにインフルエンザなどは人骨にまで症状が残ることがないためです。
とはいうものの、感染症の症状がある人骨も皆無ではありません。感染症以外の病理人骨も含めて、少し紹介したいと思います。
ポリオ
考古学や人類学でよく知られている事例の一つに、ポリオ(いわゆる小児マヒ)と思われる人骨があります。なかでも特に有名なのは、北海道の入江貝塚の例で、頭の骨に対して、手足の骨が異常に細く成長していない、という例です。ハイティーンから20歳前後で亡くなったようですが、おそらく寝たきりで介添えを受けながら、その年齢まで成長したと考えられています。年代は縄文時代後期です。栃木県の大谷寺洞穴(おおやじどうけつ)遺跡出土の人骨にもポリオの疑いがある例が報告されていて、これはもっと古い縄文時代前期のものです。
海外に目を向けると、エジプト新王国(紀元前1570~1070年、ちなみに3大ピラミッドが築かれたのは古王国の第4王朝(紀元前2613~2498年)のころ)第18王朝時代のレリーフには、片足が細くなっている人物が描かれています。ポリオは半身麻痺として現れることが多いため、このレリーフに描かれた人物もポリオだった可能性があるとされています。
結核菌
弥生時代の事例になりますが、鳥取県の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡で見つかった多量の人骨の中に2例の脊椎カリエスの症状が認められるものがありました。これが結核菌によるものと考えられていますが、縄文時代人骨に現時点で脊椎カリエスの症例はなく、弥生時代になって日本に持ち込まれた病気ということになります。
天然痘
世界的に見て、感染症の考古学的な事例で最も有名なのが、エジプトのラムセス5世(紀元前1157年死亡)の天然痘だと思います。ファラオらしく遺体はミイラ化されて葬られたわけですが、その遺体に天然痘と思われる痕があるとのことです。
日本では奈良時代に流行の記録があり、737年に平城京でも流行、藤原不比等の4人の子どもが相次いで亡くなりました。この流行が奈良の大仏の建立の原因となったのは有名なことと思います。
(以上3件の参考文献:加藤茂孝 2013年『人類と感染症の歴史』、丸善出版株式会社)
感染症以外の症例
骨折後の治癒がうまくいかなかった例
長崎県脇岬遺跡(縄文時代後期)や千葉県加曽利北貝塚(縄文時代中期~後期)などでわかりやすい事例が出土していますが、縄文時代の人骨には骨折症例も認められます。なかには治癒している部分の盛り上がりぶりから、治癒後数年は生きていたと思われるものもありますが、大たい骨を骨折している事例では、きれいに再結合していない場合もあり、それらは杖や介添えがないと歩きにくかったのではないかと思われます。そうした骨折した人々は、食料の入手や土器石器の製作、住居の建設などの肉体労働で役に立つことはなかったにもかかわらず、そうした人々も治癒後に長ければ数年生きていけるだけの扱いを受けていた、ということになります。
(参考文献:鈴木隆雄 2010年『骨から見た日本人 古病理学が語る歴史』、講談社(原本は1998年刊))
ビタミンA過剰摂取による症候群
海外の人骨では、アフリカのホモ・エレクトゥス(原人)に、病理人骨があります。ケニアのナリオコトメから発掘された女性の人骨で、およそ170万年前と推定されています。この女性の骨は、表面がざらざらしていて、骨の内部が「す」の入ったような状態でした。発掘チームが検討した結果、骨内部の「す」のようなところは、血液が凝固したと思われるもので、そうした症状はビタミンA過剰摂取によるものと判断されました。肉食獣の肝臓を食べたりするとなりやすい病気で、極地探検家がかかっていた記録もあります。
寝返りを打つだけでも全身に激痛が走ったのではと思われるほど進行している症状とのことですが、報告によれば全身にこの症状がみられるので、数週間から数カ月は生きていたと考えられ、その間、介護がないと生きていけないでしょうから、この人を最後に看取るまで世話をしたと考えられるとされています。
(参考文献:アラン・ウォーカー/パット・シップマン(河合信和 訳)2000年『人類進化の空白を探る』、朝日新聞社)
このように、人類は文字記録の残る前からさまざまな病気に悩まされてきたようです。一方で、その病気にかかった人=集団の生活維持に役割を期待できない人物であっても、おそらくは親族を中心に看病し、最期を看取っていた、つまりいたわりの気持ちがあったことがうかがえます。
縄文時代の医療行為かもしれないもの
壊れて出土することがごくごく普通の土偶ですが、ひとつの遺跡から複数の土偶破片が出土しても、接合することはまずありません。つまり、ある土偶の頭部、それとは別の土偶の胴体、それとはまた別の土偶の足、という状態なのです。
茅野市内から出土したバラバラの土偶
こうした状況から意図的に壊しているのではないか、と多くの考古学者は考えていますが、壊した理由として、ケガしたところの治癒を願ったという考え方も示されています。この考えに従えば、バラバラの土偶は、縄文時代の医療行為を反映したもの、ということになります。
この考えが正しいかどうか検証するのは簡単なことではありませんが、顕微鏡や麻酔や消毒といった現代の医療でも大きな役割を果たしている発見や発明よりも前の医療行為には、現代の私たちにとってはとても治癒を期待できないものもあったと思われます。土偶以外でも、非常に精巧な小形土器、内部を空洞に作って粒を入れた「土鈴」(つちすず)、焼けていない粘土を詰めて供えたような状態で出土した土器などの「ちょっと変わった出土品」も、もしかしたらそうした医療行為と関係しているかもしれません。
(左) 茅野市下ノ原(しものはら)遺跡出土の抽象文土器、高さ約58センチメートル
(右) 茅野市長峯(ながみね)遺跡出土の抽象文土器、高さ約8センチメートル、内部に漆が塗られており、小さいながらも非常に精巧な作りの土器。儀礼用の小形土器と思われるが、そこには縄文時代の医療行為を含むかもしれない。
新井下(あらいした)遺跡の竪穴住居から出土した、奇妙な道具のセット。土器の底部をわざと割り取ってから割れ口を整えたものに、土団子を入れてあったもの(右)と、軽石を削ってくぼみを作り、そのくぼみにやはり土団子を入れたもの(左)。何に使ったかはまったく知る由もないが、こうした「用途も意図も不明なもの」が縄文時代の医療行為を反映しているかもしれない。