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坂本養川について

2017年8月27日更新

茅野の偉人、坂本養川

八ヶ岳の裾野に広がる田園風景。その基礎を作り上げたのは、今から約200年前、江戸時代の中期から後期にかけて繰越せぎといわれる農業用水路を計画実現した坂本養川(さかもとようせん)という人物でした。

養川銅像写真

坂本養川と農業用水

坂本養川は1736年3月15日(江戸時代中期)に田沢村(現:茅野市宮川)で生まれました。

戦国時代以来の戦乱は、1615年大阪夏の陣で終わり、元和えん武と呼ばれる平和な時代を迎えました。武士も百姓もこれからは生産第一と考え、諏訪地域でも八ヶ岳山麓を中心に70余りの新田村ができました。それに伴い、農業用水や風除(防風林)や猪鹿垣が作られ、農業の基盤が整い、農業が発展し、元禄時代の文化の花が開いたのです。しかし、農業の基盤整備も18世紀半ばになると行き詰り始め、水不足のために1756年には畑を水田にすることが禁じられました。隠れて水田を作る者もありましたが、田沢村の名主だった坂本養川は、見逃してくれと頼むも聞き入れないで田を潰しました。

その後、坂本養川は江戸へ出て、関東平野の開発計画に加わりましたが、病気のために故郷に帰ると、1775年から数回にわたり、せぎの開発計画を高島藩に願い出ました。その頃藩は権力闘争に明け暮れていたため、養川の願いはなかなか聞き届けられませんでした。1783年にその争いが決着すると、ようやく新しいせぎの開発に乗り出しました。1785年の滝之湯せぎを手始めに15本ほどのせぎが開削されていったのです。

このせぎの完成により、村々の水田の割合も増え、安定した生活がおくられるようになりました。

下記ダウンロードファイル、「諏訪地方の主なせぎと取れ高の変化」をご参照ください。

 

坂本養川の常設展示

当コーナーでは坂本養川にスポットを当て、
繰越せぎの仕組みについて模型、写真や地図のパネルなどを展示しています。
また、繰越せぎや坂本養川の功績について映像で紹介しています。

坂本養川展示001 坂本養川展示003 坂本養川展示002 

 

せぎの見学

下記ダウンロードファイル、「大河原せぎ見学概略図」及び「大河原せぎ見学マップ」をご参照ください。 
 
大河原せぎの主な見学場所

滝の湯川からの取水口。
城の平別荘地の奥にある。

(地図(1))  

丸生戸川との交差にある杭と水門。この杭を目安に、増水時に水門を開いて丸生戸川にせぎの流れを逃がす。

 

乙女の滝(地図(2))
せぎの一部だとは知らずに訪れる観光客が多い??

乙女の滝で落とした流水を、
「とい」で渋川を渡す。
(地図(2))

渋川補水口。
「とい」で渋川を渡した直後、
渋川から大河原せぎに水を補う。
(地図(2))

乙見(乙美とも音見とも)の滝。
最終的に柳川に注ぐ。
(地図(3))

 

ダウンロード

地図情報


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このページに関するお問い合わせ

教育委員会生涯学習部 文化財課 八ヶ岳総合博物館
〒391-0213
茅野市豊平6983
電話番号:0266-73-0300 FAX番号:0266-72-6119
メールアドレス:y.hakubutsukan@city.chino.lg.jp

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